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田中角栄の歴史!
田中角栄(たなかかくえい、1918年5月4日 - 1993年12月16日)

昭和期における日本の政治家。内閣総理大臣(第64代、第65代)。衆議院議員(16期)。『今太閤』『コンピュータ付きブルドーザー』『闇将軍』の異名を持つ。血液型はB型。


<初当選まで>

1918年 - 5月4日、新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現・柏崎市)に、父・田中角次、母・フメの二男として生まれる。田中家は農家だが父・角次は牛馬商、祖父・捨吉は農業の傍ら宮大工を業としていた。角栄の幼少年時代には家産が傾き極貧下の生活を余儀なくされる。なお「角栄」の戸籍上の表記は「角」は中心の縦棒が下まで突き抜ける異体字で、「栄」は旧字体の「榮」である。

1920年 - ジフテリアを患う。

1933年 - 3月、二田高等小学校卒業。

1934年 - 3月、上京。住み込みで働きながら、神田の中央工学校土木課に通う。

1936年 - 3月、中央工学校土木課を卒業。建築技師として自活。

1937年 - 「共栄建築事務所」を設立する。

1939年 - 4月、応召、満州で兵役に就く。

1940年 - 3月、陸軍騎兵上等兵となる。

1941年 - 2月、大病を患い内地へ帰還。10月、治癒と共に除隊。東京の飯田橋で田中建築事務所を開設。

1942年 - 3月、事務所の家主の娘、坂本はなと結婚。11月、長男正法が誕生(1947年9月、5歳で死亡)

1943年 - 12月、田中土建工業を設立。理研工業(理化学研究所の産業部門)などの仕事で急成長する。

1944年 - 1月、長女真紀子が誕生。

1945年 - 8月、敗戦。滞在していた朝鮮半島から帰る(最後は理研工業移転の仕事で大田(たいでん、テジョン)にいた)。田中土建工業は戦災を免れる。


<初当選から首相就任まで>

1946年 - 4月、政治資金を献金した大麻唯男の勧めにより、第22回衆議院総選挙で進歩党公認で出馬し、落選。

1947年 - 4月、第23回総選挙で新潟3区から民主党公認で出馬し、当選。

1948年 - 5月、民主自由党へ参加。10月、第2次吉田茂内閣の法務政務次官
に就任。12月、炭坑国家管理疑惑により逮捕。衆議院の解散により獄中から立候補。

1949年 - 1月、第24回総選挙で再選。

1950年 - 4月、建築士法案を提出、成立。11月、長岡鉄道(現越後交通)社長に就任、田中土建工業は閉鎖。

1951年 - 6月、炭坑国家管理事件で無罪が確定。

1952年 - 6月、議員立法により新道路法成立。田中が提出者として主導。

1953年 - 4月、中央工学校の校長に就任(1972年に退任)。

1954年 - 5月、自由党副幹事長。佐藤栄作との関係が次第に深くなる。

1955年 - 3月、衆議院商工委員長。11月、自由民主党の結党に参加。

1957年 - 7月、第1次岸信介改造内閣で郵政大臣に就任。戦後初めて30歳代での大臣就任。

1961年 - 7月、自民党政務調査会長。

1963年 - 7月、第2次池田勇人内閣の改造で大蔵大臣。第1次佐藤栄作内閣まで留任。

1965年 - 6月、大蔵大臣を辞任し、自民党幹事長へ(1966年12月辞任)。

1968年 - 5月、自民党都市政策調査会長として「都市政策大綱」を発表。11月、党幹事長に復帰。

1969年 - 4月、真紀子が鈴木直人元衆議院議員の三男、直紀と結婚。直紀は婿養子として田中家に入る。

1971年 - 7月、第3次佐藤栄作内閣の改造で通商産業大臣。10月、日米繊維交渉が決着。

1972年 - 5月、佐藤派から田中派が分離独立。6月、「日本列島改造論」を発表。7月5日、佐藤が支持した福田赳夫を破り自由民主党総裁に当選。7月6日、第1次田中角栄内閣が成立。


<首相在任時>

1972年 - 9月、日米首脳会談後に、大平正芳外相らとともに中華人民共和国を訪問し、首都北京で周恩来首相や毛沢東国家主席と会談。9月29日、両国の共同声明により日中国交正常化が実現し、日華平和条約の終了を確認。同日、中華民国国民政府(台湾)が対日国交断絶を発表。

12月、第33回総選挙で自由民主党過半数確保も議席減、日本共産党が躍進。12月22日、第2次田中角栄内閣発足で挙党一致体制へ。

1973年 - 地価や物価の急上昇が社会問題化。8月、金大中事件発生。9月、西欧諸国訪問。10月、ソビエト連邦訪問で日ソ共同声明を発表。10月16日、第四次中東戦争から第一次オイルショックが発生。11月、第1次内閣改造で福田赳夫が大蔵大臣就任、需要抑制・省エネルギー政策へ転換。

1974年 - 1月、東南アジア訪問時に、インドネシアの首都ジャカルタで反日デモに遭遇する。7月、参議院選挙で大敗し、与野党伯仲状態になる。三木武夫や福田赳夫が閣外へ去る。

10月、月刊誌文藝春秋で「田中角栄研究」連載が開始、立花隆らが金脈問題を追及する。11月、国会での追及を受け、第2次内閣改造後に総辞職を表明。12月9日、内閣総辞職、椎名裁定により三木武夫内閣発足。首相在職通算日数は886日。


<首相退陣後>

1976年 - アメリカ上院の外交委員会で、ロッキード社による航空機売り込みの国際的リベート疑惑が浮上。7月27日、ロッキード事件における5億円の収賄と外国為替・外国貿易管理法違反の容疑により、秘書の榎本敏夫などと共に逮捕される(総理の犯罪)。逮捕時に自民党を離党し、以後無所属に。8月、保釈。12月、第34回総選挙でトップ当選。自民党は大敗し、三木武夫内閣は総辞職、福田赳夫内閣へ。

1978年 - 12月、大平正芳内閣発足。田中が強く支持。

1979年 - 10月、第35回総選挙でトップ当選。自民党は大敗し、その後の「40日抗争」で田中は大平を支持。党分裂の危機へ。

1980年 - 6月、第36回総選挙(参議院とのダブル選挙)でトップ当選。自民党も圧勝し、その後の鈴木善幸内閣発足を支持。この時、同じ新潟3区から、元越山会青年部長の桜井新が自民党公認で初当選。

1982年 - 11月、上越新幹線暫定開業(大宮 - 新潟)。同月、第1次中曽根康弘内閣発足。田中の全面的な支持を受け、「田中曽根内閣」と揶揄される。

1983年 - 10月ロッキード事件の一審裁判で東京地方裁判所から懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を受け、即日控訴(「不退転の決意」)。12月、第37回総選挙で22万票の圧倒的支持を集めて当選。田中批判を唱えて新潟3区から立候補した前参議院議員の野坂昭如は落選。直紀も福島3区から初当選。ただし、自民党は大敗し、中曽根康弘総裁が「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」声明を発表。

1984年 - 10月、自民党総裁選で田中派(木曜クラブ)会長の二階堂進副総裁を擁立する構想が起こり、田中は中曽根再選を支持。12月、田中派内の中堅・若手により、竹下登を中心とした「創政会」の設立準備が進められる

1985年 - 2月7日、創政会が正式に発足。2月27日、田中が脳梗塞で倒れ入院。言語障害や行動障害が残り、政治活動は不可能に。6月、田中事務所が閉鎖。9月、ロッキード事件控訴審開始、田中は欠席。10月、関越自動車道全通。

1986年 - 7月、第38回総選挙でトップ当選。田中は選挙運動が全く行えず、越山会などの支持者のみが活動。自民党は圧勝。

1987年 - 7月、竹下が経世会を旗揚げし、田中派の大半が参加。二階堂グループは木曜クラブに留まり、中間派も含めて田中派は分裂。同月、東京高等裁判所はロッキード事件で一審判決を支持し、田中の控訴を棄却。田中側は即日上告。10月、竹下が突然田中邸を訪問し、真紀子に門前払いされる。後に皇民党事件として表面化。11月、竹下内閣が発足。

1989年 - 10月、直紀が次期総選挙への田中角栄の不出馬を発表。

1990年 - 1月24日、衆議院解散により政界を引退。衆議院議員勤続43年、当選16回。各地の越山会も解散。2月、第39回総選挙では元越山会員で前小千谷市長の星野行男が自民党公認で当選。

1992年 - 8月、中国政府の招待で20年ぶりに訪中し、真紀子などが同行。12月、経世会が分裂。

1993年 - 7月、第40回総選挙で真紀子が自らの選挙区だった新潟3区から無所属で出馬し、初当選。後に自民党へ入党。選挙で過半数を下回った自民党は下野し、元田中派所属の細川護煕が非自民8党連立内閣の総理大臣になる。12月16日、75歳で死去。墓所は新潟県柏崎市(旧西山町)田中邸内。ロッキード事件は上告審の審理途中で公訴棄却となる。

1995年 - 2月、最高裁判所は榎本敏夫に対するロッキード事件上告審判決で、判決理由中で田中の5億円収受を認定する。


<没後>

1998年4月 - 田中角栄記念館が新潟県柏崎市(旧西山町)に開館。

2000年 - 朝日新聞の「この1000年の『日本の政治リーダー』読者人気投票」で、坂本竜馬、徳川家康、織田信長に次いで第4位の得票を得る。


業績と功罪

<社会基盤整備>

衆議院議員として、100本を超える議員立法を成立させた。その中には、自らが中心となって全面改正を実現させた道路法や、道路・港湾・空港などの整備を行う各々の特別会計法が含まれ、戦後の日本の社会基盤整備に大きな影響を残した。

官僚を上回る知識量と実行力で群を抜いており、このような事例から、「コンピュータ付きブルドーザー」の異名を取った。

特に社会基盤整備を直接担当する建設省や運輸省等に対しては絶大な影響力を持った。また、自らが大臣として着任していた通産省や郵政省などにも大きな影響力を持ち、政治家による官僚コントロールの象徴的なケースとなった。

郵政相時代には、テレビ局と新聞社の統合系列化を推し進め、その強力な指導力により、現在の新聞社 ─ キー局 ─ ネット局体制の原型を完成させる。その過程で、官僚のみならずマスコミも掌握した。特にテレビ局の放送免許(とりわけ地方局の免許)を影響下に置いたことは、その後の田中の飛躍の原動力になった。

自らの選挙区である新潟県への社会基盤整備には特に熱心だった。「雪国と都会の格差の解消」「国土の均衡ある発展」を唱え、関越自動車道や上越新幹線のような大規模事業から、長岡市や小千谷市などの都市部での融雪装置設置や、山間部の各集落が冬でも孤立しないためのトンネル整備などの生活密着型事業まで、多様な公共事業の誘致に成功した。

さらには自身のためのテレビ番組までも持ち、選挙民の陳情を番組で直接吸い上げると共に、業績を強烈にアピールした。上越新幹線の浦佐駅(南魚沼市、旧大和町)東口には、現在でも田中の巨大な銅像が建立されている。

後援会の「越山会」は建設業者による公共事業受注と選挙の際の田中への投票というバーター取引の場となり、地域社会を支配した。これは地域住民の生活向上に大きく貢献する有効な組織となった反面、自民党政治の典型である利益誘導や金権体質への強い批判を受け、公共事業へ過度に依存したいびつな産業構造も残した。

また、これらの公共事業の実施に際しては、長岡市の信濃川河川敷買収・利用問題などで自らや親族が役員を務める「ファミリー企業」への利益供与が疑われ、金脈問題への追及を受けることになった。


<その他の政策>

高等小学校卒業という学歴で新潟から上京し、実業界と政界で成功を収めたという経歴から「今太閤」や「庶民宰相」ともてはやされ、就任時は各種機関の内閣支持率調査で空前の70%前後の支持を集めた。しかし、日本列島改造論が地価の暴騰やインフレを招くと、国民の支持は急速に失われた。

建築士法の制定を提案(可決成立)。

ロッキード事件による逮捕で自民党を離党しても、党内最大派閥の実質的な支配者として君臨し、絶大な影響力を持った。特に、大平正芳・鈴木善幸・中曽根康弘の3代の総理大臣就任には田中の支持が不可欠であり、マスコミからは「闇将軍」の異名で呼ばれた。

結果として、その強大な影響力の維持は、選挙における自民党の低迷と、新潟3区での田中自身の大量得票という二律背反的な影響を与えた。

選挙制度については、在任中の1974年に小選挙区比例代表並立制の導入を提唱したが、野党と世論の猛反発を浴びて撤回に追い込まれた(俗にカクマンダーと称されている)。

自らの首相退任後は、自派からの自民党総裁選立候補を許さず、キングメーカーとして君臨するスタイルを貫こうとした。これは内閣総理大臣の権威を失墜させ、日本の政治権力構造を不透明なものにした。これに対しては配下(子分)からの不満が起こり、最終的には竹下登の離脱で田中派が崩壊した。

自分の選挙区でも後継者を定めることはなく、自らがトップに君臨し続けたため、桜井新の離反などが起こった。1990年の引退時には越山会を解散し、自主投票となったが、1993年の総選挙では旧越山会会員の多くが真紀子を支持した。


<外交>

田中の政治的な師である佐藤栄作は台湾の中華民国(国民政府)を重視しており、田中自身が首相就任前から親中派として知られていたわけではないが、1972年1月にニクソン・アメリカ大統領が中国を訪問したこと、三木武夫が総裁選における田中支持の条件として日中国交回復を条件としたことなどにより、日中国交回復への決断を早急に行った。

これが現在に至るまで、田中による最大の政治的業績と見なされているが、この際台湾と断交したことに対する批判は今も根強い。しかし角福総裁選において、三木武夫や当時ハト派若手グループを率いていた河野洋平ら親中派議員がキャスティングボートを握っており彼らの支持を得ようとせんとするのであればやむをえない一面もあったであろう。

一連の日中外交において外相を務めたのが、田中の盟友・大平正芳であり、田中の信頼のもと、田中から外交の一切を任され、実務を取り仕切った。引続いての日中航空協定では党内の批判の矢面に立ち交渉を取りまとめた。田中政権の成立にあたっては「内政は田中、外交は大平」との方針でいくことが二人の間で交わされており、大平は自派(宏池会)からの三役就任の声を押し切って外相を引き受けた。両者の信頼関係を物語るエピソードである。

当然、自民党政権の首相として対米外交も重視しており、首相就任直前に返還された沖縄問題、終盤に入ったベトナム戦争への対応、ニクソン・ショック後に変動相場制へ移行する金融政策などでニクソン政権と協調した。ただし、そのアメリカからもたらされたロッキード事件が、田中の政治活動を大きく制限する事になった。

日ソ国交回復時の鳩山一郎以来となるソビエト訪問では、ブレジネフ共産党書記長との会談で、「両国間にある未解決の問題の中に北方四島の問題が含まれる」という事を確認したが、領土問題についてはそれ以上の成果はなかった。一方、経済協力についてはシベリア開発などでの進展が見られた。

在任中に第一次オイルショックが発生し、中東政策をイスラエル支持からアラブ側支持に転換すると共に、中東地域以外からのエネルギーの直接確保に勤めた。なお、田中の支持者の間では、これがアメリカの石油資本の不興を買い、ロッキード事件による事実上の失脚につながったとする陰謀説を唱える者もいる。

金大中事件では当時の朴正煕政権を支持するとの立場から主権侵害との批判を介さず韓国側の一方的な政治決着を受け入れ批判された。この時毅然と対応していれば北朝鮮拉致事件は起きなかったという評もある。


<人脈>

大平正芳とは長らく共闘関係にあり、田中の総理就任の際には大平の協力が、大平の総理就任の際には田中の支援があった。盟友関係の一端が上述の日中外交における二人三脚である。その一方、官僚出身政治家として対極にあった福田赳夫や、「クリーン政治」を訴え自らの逮捕を容認した三木武夫とは激しく対立した。特に福田との「角福戦争」は、第2次大平内閣時に総理大臣指名選挙での党分裂や不信任案の福田派欠席による可決までエスカレートした。

正妻・はなとの間には1男1女を設けたが、成人したのは長女の真紀子のみだった。はなは病弱のため、田中が総理大臣の時には真紀子がファーストレディの役目を代行し、田中の引退後に同じ新潟3区から衆議院議員に当選した。なお、角栄と真紀子は「一卵性親子」とも呼ばれた。

その真紀子の結婚に当たっては、直紀を婿養子として迎えた。その後、直紀は福島3区から衆議院に当選した。

この他、東京・神楽坂の芸者、辻和子との間に2男1女がいる。こちらは政界の表舞台には立たず、政治地盤の継承も行わなかった。その中の一人が、音楽プロデューサーやバー経営者の田中京で、後に母子でそれぞれ田中への回想録を出版した。長女の真紀子はこの辻や腹違いの兄弟たちをよく思っておらず、葬儀の際の焼香を拒否したとされる。神楽坂という場所も嫌い、角栄亡き今も「神楽坂なんて大嫌いだ。近付きたくもない。」と、周囲に語っている。

東京や新潟での人脈の広さは幅広く、東京の文京区目白台の自邸(通称:目白御殿または目白)には政財界の要人が常時訪れていた(通称:目白詣で)。 この当時、政治用語で「目白」と言えば田中角栄のことを指していた。

選挙区の新潟3区の全市町村で結成された後援会組織「越山会」は鉄の団結と評され、ロッキード事件後は田中に圧倒的な得票での当選を続けさせて、中央政界での政治的影響力を与え続けた。秘書の佐藤昭子は「金庫番」として田中の政治活動を支え、新聞記者から転身した早坂茂三は政策ブレーンとして政界に大きな影響力を持った。2人とも角栄が倒れた後は真紀子から遠ざけられた。

田中派は自民党内最大の派閥であり、最盛期では約130人の国会議員が所属していた。その中には、二階堂進、金丸信、竹下登などの当時の党幹部が含まれ、中堅には後に竹下派七奉行と呼ばれた羽田孜・橋本龍太郎・小渕恵三・小沢一郎・梶山静六・奥田敬和・渡部恒三、他に綿貫民輔などであった。なお、小沢は早世した長男正法と同じ1942年生まれで、田中は特に小沢をかわいがったとされる。その後、七奉行の中で羽田・小沢・奥田・渡部の4人は自民党から離党し、民主党への流れを作った。

典型的な党人派政治家であったが、多くの官僚出身者も迎え入れた。特に自分の内閣で内閣官房副長官を務めた元警察庁長官の後藤田正晴は重用され、田中が倒れた後も自民党政権の中枢に座り続けた。

芸能界からも積極的にスカウトを行い、参議院選挙では全国区で山口淑子(大鷹淑子、李香蘭)、山東昭子、宮田輝などを当選させた。また、田中からの勧誘を断ったタレントに対しては、他党からの出馬をしないように言い含めたともされる。

議員活動が長く、議員立法などで野党との協力を行う場面も多かったため、関係も深かった。民社党との間で、1965年の「日韓国会」(日韓基本条約承認)から春日一幸とのパイプがあった。そのかいあって後に、公民両党が定数5の新潟3区で長年に渡り候補を擁立せず、事実上の角栄支援=選挙協力をした。

派閥の肥大化、権力の掌握にあたって非常に機能的に組織されていたのが秘書集団であった。それがもっとも機能的に働いたのが大平内閣前夜の自民党総裁予備選であった。当初現役総理の福田は予備選に負けたら総裁選を降りると明言するほど票の差があると見られていた。

大平を推す田中派は後藤田正晴の指示のもと、秘書集団が東京を中心とする党員を戸別訪問する「ローラー作戦」を展開することによって結果は逆転、一転福田を本選辞退に追い込んだ。有名なところでは金庫番といわれた佐藤昭子、スポークスマン的な役割を担った早坂茂三、選挙戦を新潟から支えた国家老本間幸一、目白にあって城代家老と言われた山田泰司、総理大臣秘書を努めた榎本敏夫などがいる。

新潟では戦前の農民運動の影響で日本社会党の力が比較的強く、革新系首長・議員も多くいたが、田中はこれらとも別け隔てなく接し協力も惜しまなかった。そのため、中央政界で社会党が田中批判を行っても、新潟ではそのトーンが落ちるという指摘もあった。

1969年11月、政治評論家藤原弘達が創価学会と公明党の政教一致を批判する『創価学会を斬る』を出版したが、創価学会と公明党はこの著作に対し出版以前から出版社・書店などに圧力をかけた(「言論・出版妨害事件」)。その際田中は藤原に対し「公明党は議席さえ与えておけばご機嫌な連中だ。あまり絡むな」と忠告したという。藤原はこうした田中の姿勢を問題視し、「創価学会・公明党の本質を直視していない」と批判している。

田中は社会党の勢力を相対的に弱めるため創価学会と公明党には甘い態度をとり続けたと言われ、田中派所属議員の中にも公明党議員と親密な関係を持つ者が少なくなかった。

経済界での人脈も広く培っていた。その中で、田中が「刎頸の友」と呼んだ国際興業の小佐野賢治は、後に共にロッキード事件で刑事責任を問われた。
ロッキード事件では小佐野を介して右翼団体の大物活動家である児玉誉士夫との接点が指摘された。この方面の人脈については、今でも不透明な部分が多い。

中国からは「国交回復を決断した偉大な政治家」として尊敬され、田中が刑事被告人として訴追された後も、多くの中国政府の要人が訪日時に田中邸を訪問した。1977年の小平来日の際には田中邸を訪問している。田中家と中国政府の友好関係は角栄の死後も真紀子が継承している。

初の大正生まれの首相であり史上初の新潟県出身の首相である。日中国交正常化、金大中事件、オイルショックと言った政治課題を独自の手腕で切り抜けた。人気がある反面、癖のある人格や政治方法と金脈問題、上越新幹線・関越自動車道に代表される支持基盤への利益誘導型政治を推進したとして批判の対象になることも多い。

1974年末に金脈問題が追及されて総理を辞職するが政界への影響力は保ち続け、1976年にロッキード事件が発覚、受託収賄罪で起訴されて自由民主党を離党し、一審で有罪の判決を受けても、まだ影響力を持っていた。時の首相も彼の影響を受けずにはいられなかったことから闇将軍とも呼ばれた。この影響力は彼が1985年に病床につくと急速に失われた。他にも脱税事件を起こしている。受託収賄は二審も有罪、上告したが死去したために公訴棄却となった。

貧しい生い立ちから身を起こし立身出世したことが、豊臣秀吉に共通するという点から、俗に「今太閤」と呼ばれることもあったが、本人は織田信長、秀吉、徳川家康の戦国三傑において信長を理想としており、自分が豊臣秀吉に擬えられることは好んでいなかった(太閤、豊臣秀吉参照)。
一級建築士資格取得者である。馬主として子の眞紀子から名を取ったマキノホープという馬を所有していた。

1957年の第8回NHK紅白歌合戦に審査員として出場している。
小室直樹の著作を愛読し、これを高く評価していた。小室はロッキード事件の際「田中無罪論」を展開したが、それ以前からの読者である。
自ら校長も務めた母校の中央工学校が校内に銅像を立てようとしたが、「学校に政治を持ち込むのは良くない。自分は母校のために何もしていない」と言いこれを断っている。浦佐駅の銅像建設時と正反対の対応であり、田中の人となりが良く現れたエピソードとして知られる。

馬喰の家出身のせいか、味付けの濃い食べ物を好んだ。そのため首相在任中は常にミネラルウォーターを持ち歩いていた。
真紀子の当選後にお国入りした際「目白の骨董品が参りました」と紹介された。

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2006-12-12 Tue 18:17
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小泉純一郎の極秘プロフィール!
小泉 純一郎(昭和17年(1942年)1月8日 ‐ )

昭和・平成期における日本の政治家。衆議院議員(12期)。

内閣総理大臣(第87・88・89代)、郵政大臣(第56代)、厚生大臣(第74・86代)、自由民主党総裁(第20代)を歴任。

独特の風貌と実行力、政策の分かりやすさなどにより国民から多くの支持を獲得し、内閣総理大臣としての在任期間は1,980日と、戦後の内閣総理大臣としては佐藤栄作、吉田茂に次ぐ第3位の長期政権となった。 また、中曽根康弘以来の、辞任せずに自由民主党総裁任期を全うした総理大臣ともなった。


<主な政策>

内政
ハンセン病訴訟において、国側の責任を認め患者・遺族側と和解。

郵政民営化の前段階としての公社化。

役人の天下りを抑制するため、特殊法人(住宅金融公庫など)の独立行政法人化。

道路関係四公団の民営化法案成立。

構造改革特区により規制緩和を促進。

竹中平蔵を金融担当大臣に抜擢し銀行の不良債権削減に努める。

最低資本金制度の特例措置(後に会社法の制定)により1円から企業を立ち上げることを可能にした。

高齢化社会に対応するため年金法改正案を可決。段階的に社会保険料の引き上げを行う。

厚生年金、及び共済年金加入者の医療費3割負担。

国家戦略本部[1]を設置。

三位一体の改革の推進。


<外交>

2005年パースシャーサミットに日本の首相として参加(右から3番目の人物)今まで以上に日米同盟の強化を果たす。戦後初、日本が中東における自国の利益の保護と維持及び世界平和実現のために積極的な行動が必要との観点から、米国主導のイラク復興事業に自衛隊としてイラクの非戦闘地域サマワへの派遣を決める。

戦略的外交諮問機関 対外タスクフォース[2]を設立。

日本の観光立国化に力を入れ、YOKOSO JAPAN キャンペーンを実行した。その一環として、中国人や韓国人、台湾人等の観光客に対するビザ免除等を行った。

北朝鮮に訪朝し金正日総書記と正式会談。その後北朝鮮側が初めて<拉致関与>を認める。また、五人の方が生存して母国日本へ帰国。(交渉継続中)


<実績>

<靖国神社への8月15日(終戦の日)参拝>

2001年の自民党総裁選で「私が首相になったら毎年8月15日に靖国神社をいかなる批判があろうと必ず参拝します」と公約。2001年から2005年までは、国内外からの批判に配慮して8月15日以外の日に参拝していた。しかし「8月15日を避けてもいつも批判、反発(が起きた)。ならば、8月15日が適切ではないかと判断した」として自民党総裁の任期が満了する2006年には8月15日に参拝した。 本件については靖国神社問題の項を参照。


<郵政民営化>

郵政民営化の実現を公約として掲げた。2005年に政府が国会に提出した郵政民営化法案が衆議院において可決された後、参議院において否決されたため衆議院を解散した(郵政解散)。この解散は参議院の意義を否定するものとして一部では問題視されたが、解散により実施された衆議院選挙で自民党は歴史的大勝をし、結果的に法案が参議院で否決された場合でも衆議院で再可決することにより成立させられる3分の2超の議席を与党で確保した。選挙後の特別国会において衆参ともに郵政民営化法案が可決され、民営化への道筋がつけられた。 本件については郵政民営化の項を参照。


<国債30兆円枠>

小泉内閣は、「国債30兆円枠を守る」ことを公約として掲げた。政権発足1年目の予算案では公約を達成した。しかし、政権運営2年目以降は同時多発テロによる世界的な不況もあって税収が落ち込み、国債発行額が30兆円を超えることになった。2006年予算において、再び国債発行額を30兆円以下に抑えることに成功した。


<不良債権処理>

竹中平蔵らが中心となってまとめた金融再生プログラムを実行し、その過程でりそな銀行に公的資金を注入した。その結果低迷していた株価は反転し、日本経済も徐々にではあるが回復への道のりをたどった。


<年金改革>

小泉内閣は、社会保障制度の根幹である年金に対し、抜本的な改革を行うと公約した。その審議中に与野党問わず数多くの国会議員の国民年金保険料の未納や、小泉自身の厚生年金問題が指摘されつつも法案は可決された。


<女系天皇を容認>

長い間、皇室に皇位継承権を有する男の子が生まれていなかったことなどから、皇室典範に関する有識者会議を設置して、2005年11月24日には、男系・男性天皇のみ認める現行皇室典範を改正し、女性天皇・女系天皇を容認する旨の報告書の提出を受けた。

2006年9月6日に秋篠宮家に男子の悠仁親王が誕生したことで、女性・女系天皇に批判的な立場の者などが皇室典範改正の棚上げを求めた際も、現代において常に男の子が生まれて来るとは限らないという考えを示し、最後まで女系天皇を認めるべきという姿勢を崩さなかった。


人物像

<信念・容姿>

郵政民営化や道路公団民営化などに反対する議員・団体・勢力を「抵抗勢力」と呼び、流行語となる。
全てを一人で考え、一人で決断する。他人の批判、意見に耳を傾けることはない。

髪型がライオンのたてがみに似ているとして、ライオンのイメージキャラクターがつくられる。

教育論は「しっかり抱いて、そっと降ろす」

愛読書は『ああ同期の桜』(海軍飛行予備学生第14期会編)

与野党関係なく「政治家の出処進退は自らが決めるべき」との持論を一貫して主張している。

尊敬している人物は吉田松陰である。

国会では「極東国際軍事裁判を受諾し、A級戦犯は戦争犯罪人と認識している」と答弁している。

2006年9月の自民党総裁任期満了をもって総理及び総裁の両役職を辞める旨を会見などで早くから発言し、任期満了までに時間がある時点からポスト小泉人事が話題となっていた。小泉総理自身は総理・総裁辞任後は院政を敷くつもりはないと発言していた。総裁選直前に安倍晋三支持を明確にした。

小泉内閣最後の官邸メールマガジンでは、ありがとう/ささえてくれて/ありがとう/激励協力/只々感謝 という自作の短歌を掲載した。


<対人関係>

愛人疑惑を持たれて2003年の第43回衆議院議員総選挙で一度は落選した盟友、山崎拓を首相特別補佐官として登用し、2005年4月24日の衆議院議員補欠選挙では山崎は再び議員に返り咲いている。その後は靖国参拝問題や人事などで山崎との関係は疎遠化したとも言われている。

加藤紘一とも「YKK」以来の友人として知られる。ただ、小泉と加藤の関係は、加藤の乱における小泉の加藤不支持、小泉総裁誕生時の加藤からの支援、靖国参拝問題における加藤の小泉批判など、その政治情勢に応じて温度差が激しい。

人からの贈り物は一切受け取らず、そのままつき返している。

01年4月小泉内閣発足で国土交通副大臣就任した当時志帥会の佐藤静雄は、小泉と同い年で福田事務所時代の同僚である。


<対外関係>

2006年6月29日ホワイトハウスにて、ブッシュ大統領と握手しながら記者会見を行なう小泉。小泉外交は出身派閥である清和政策研究会の伝統的な親米タカ派路線にのっとっている。このため中国・北朝鮮等に対し宥和的な政策をとっていた平成研究会主導の政権とは外交政策面が大幅に転換された。

アメリカのブッシュ大統領とは自他共に認める大親友であり、日本の首相としては初めてキャンプデービットの別荘に招かれた。

北朝鮮に対しては対話と圧力を掲げて、硬軟取り合わせた対応を行った。2006年のミサイル発射問題では関係国中最も強硬な国連外交を展開した。


<音楽・芸術関係>

解散したロックバンド、X JAPANの大ファンであると公言している。その流れから自民党のCMにX JAPANのヒット曲『Forever Love』を採用した。
小泉内閣で経済産業副大臣を務めたこともある衆議院議員高市早苗によれば、小泉とカラオケをした際にX JAPANのシングル曲である『Rusty Nail』を歌ったが、小泉はこの曲を知らなかったという。これは『Forever Love』を絶賛した際にファンから送られたバラード集のテープを愛聴するなどの、そもそものバラード好きが起因している。『Rusty Nail』はハイテンポな曲であり、通常、バラード集に収録されることはまずない。

本人はバラード曲である『Tears』を最も好んでおり、2004年の参議院選挙に向けたCMのBGMへの使用を考えていたが、選挙戦に涙はまずいとして、以前にも自民党が採用した『Forever Love』が再度採用された経緯がある。

1998年5月2日に死去した元X JAPANのメンバー(ギタリスト)で、同郷でもあるhideの記念館(地元の神奈川県横須賀市)の設立に協力した。

オペラ(歌劇)、狂言、歌舞伎、映画鑑賞が趣味である。

中でもオペラへの関心は高く、2003年のドイツ公式訪問では本人の強い希望でバイロイト音楽祭を訪問し、リヒャルト・ワーグナー作のタンホイザー全3幕を鑑賞した。

多くの映画音楽を手掛けている音楽家エンニオ・モリコーネのファンでもあり、2005(平成17)年10月5日に発売されたチャリティアルバム「私の大好きなモリコーネ・ミュージック」の選曲を務めた。

2006年6月29日、エルヴィス・プレスリーの故郷、グレイスランドに向かう小泉。オールディーズ時代のロックンローラー、エルヴィス・プレスリーの大ファンである。首相就任後の2001年には、自ら選曲し解説を著したエルヴィスのCDアルバムを発表した。

2006年6月30日に日米首脳会談後、エアフォースワンにブッシュ夫妻と同乗し、エルヴィスの旧居である「グレイスランド」を訪問した。そこで「グローリー、グローリー、ハレルーヤ、っと」と熱唱しながらエアギターを披露した。

エルヴィスとは誕生日が同じ1月8日である。


<スポーツ・芸能関係>

大相撲に興味があり、しばしば本場所を訪れる。

首相就任直後の2001年5月に行われた夏場所では、通常は内閣官房副長官(政務)が担当する総理大臣杯の授与を自らい、前日の負傷を押して出場して22回目の幕内優勝を勝ち取った横綱貴乃花光司に対して「痛みに耐えてよく頑張った!感動したっ!!おめでとう!!」との賛辞を送った。この言葉自体が大きな反響を呼び「痛みに耐えて改革を進める」という小泉内閣の国民負担による改革という基本姿勢を象徴する言葉となった。

貴乃花がその後7場所、1年2か月間にわたり休場し、復活優勝を果たせないまま2003年1月に引退したことから、この事実を小泉による改革への批判ないしは揶揄の文脈で用いる者がいる。

プロ野球での支持球団は神奈川県を本拠地とする横浜ベイスターズ。同球団の2軍が独立採算制の湘南シーレックスとなった際には、本地が地元・横須賀市である事もあり、後援会の結成に協力している。

2003年にフロントとの確執から巨人監督を辞任した原辰徳に関して「野球界にも権力闘争があるんだね。」と記者団からの質問にコメントを述べた。

サッカーの2002 FIFAワールドカップでは、ホスト国・日本の首相として大会運営に協力した。大会直前の親善試合では日本代表の激励のために国立競技場を訪問し、約5万人のサポーターから「コイズミニッポン」コールを受けた。

スポーツで日本人選手や日本代表が活躍をすると、記者会見で称賛などのコメントを行う。これは小泉のスポーツ好きを示す例であり、小泉が世間の話題に敏感であるという例の一つでもある。

1998年、世界のワイン名士・著名人に贈られるメドック・グラーヴ・ボンタン騎士団騎士の称号を送られた。

1999年に放送されたドラマTEAM(フジテレビ系)に文部大臣として出演したことがある。また同じ年に、同じくフジテレビ製作のSMAP×SMAPのビストロスマップのコーナーにも出演している。

2002年5月26日に東京競馬場で行われた東京優駿(日本ダービー)に来場し、表彰式で優勝馬(タニノギムレット)の馬主(谷水雄三氏)に「内閣総理大臣賞」を授与した。現職首相のダービー観戦は、1958年の岸信介首相以来の44年ぶり2回目。


<人物評>

YKKでは、人徳の山崎、政策の加藤に対比して、政局の小泉と評された。

1998年の自民党総裁選に出馬した際田中真紀子に変人と評され、以後このニックネームが定着した。郵政解散の折には、森に変人以上と評されている。
「自民党をぶっ壊す」「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力」と宣言して総裁選に勝利、発足時の内閣支持率は戦後最高を記録した。田中真紀子の更迭時には支持率が急落した。

聖域なき構造改革として、痛みを伴う改革を主張した。

靖国神社に参拝する理由を問われると一貫して「心の問題」として押し通した。他方で政教分離原則に反するのではと議論を呼んだ。

北朝鮮から拉致被害者の帰国を実現させ、同時に北朝鮮に拉致の事実を認めさせ、北朝鮮との交渉の道筋を開いた事に関し高く評価された。一方で拉致被害者家族会の会員から5人しか帰国をさせられなかったとして非難を受けた。


<家族 親族>

祖父・又次郎(とび職人、政治家)
父・純也(政治家)
姉・信子(政策担当秘書)
弟・正也(秘書、妻は石原慎太郎の妻の従兄弟の子)
長男・孝太郎(タレント)
二男・米国シンクタンク『戦略国際問題研究所』研究員
1982年に家庭教師をしていた時の教え子である前妻と離婚して以降独身である。離婚時に前妻が妊娠中だった「三男」は前妻が親権を持った。


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2006-12-11 Mon 18:03
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自民党の派閥!
<政党連合と派閥>

自由民主党内では派閥を政策集団と言い換える事もしばしば行われている。自民党内外の俗称は「むら」。研究者によっては、自由民主党を「一つの政党」ではなく「派閥と呼ばれる政党が複数集まった、長期政党連合」との見方を採る場合もある。

ここで言及されている政党連合とは、政治において政策や主張に共通点のある政党が集まって、意見の集約と統一された政策の形成を図り、政策の実現に向けての活動として、政権を担当することを目標とし、議会の運営の基本単位として働いている組織である。

政党は定義上は個人の集合体であるが、ある程度の規模を持つ政党をこの定義で分析するのは非常に困難である。従って自由民主党のような大政党をより小さな規模の政党(=派閥)の集合体と看做せば、政党連合と政党との間には余り大きな違いが見出せなくなり、政党内に存在する派閥は、政党連合を構成する政党と同様の働きをすると言えるだろう。


<派閥解消の動き>

結党以来、派閥の弊害が指摘されており、1963年10月の「三木答申」において、自民党で初めて派閥解消が論じられたが、これは当時の池田総理が受け流した格好となり、結局派閥解消には至らなかった。その後、1977年3月の福田内閣下と、1994年の河野総裁下での野党時代に派閥解消が行われ、各派が派閥の看板を降ろし、マスコミでも「旧○○派」の通称に統一された。しかし実質的には派閥は連綿として存続しており、いずれの解消時も総裁選挙が近づくにつれて公然と派閥活動が行われるようになった。

脱派閥を訴えた小泉純一郎も、実質的には生粋の派閥政治家だとする評価があり、実際彼は自分の政権で出身派閥の森派を厚く遇し、長年対立関係にあった橋本派は冷遇した。

しかし、自民党派閥は本来中選挙区制を前提にできており、現在の小選挙区制では必ずしも機能していない。一方、小選挙区制では党執行部や選挙の顔である総裁の役割が拡大し、派閥は徐々に変質しつつあるとも言われる。


<派閥政治>

<仕組み>

自民党の各派閥の仕組みは派によって多少の違いはあるものの、おおむね次のようになっている。

名誉会長:かつての派閥会長であった人などが就く、文字通りの名誉職。但し、ベテラン政治家或いは会長の相談役として、派閥内外に影響力を発揮する場合もある。

会長:派閥の筆頭。領袖と呼ばれることもある。一般に派の創設者たる会長は極めて強力な支配権を有するが、前任者より地位を引き継いだ会長はそれほどの力を持たない事もある。選挙資金やポストの斡旋などの支援が派の構成員から期待され、それが出来ない場合は地位を追われることもある。また、派に属する議員は会長を「オヤジ」と呼ぶこともある。

代表:派閥の筆頭。会長人事への異論が無視できないとき、暫定的な性格を強調する意味で会長の代わりに置かれる。伊吹派、丹羽・古賀派などで置かれた。

会長代行:実質的な次席。常置ポスト。会長代行は次期会長と目されることが多い。

副会長:名誉職の意味合いが、派内の有力政治家のポスト。

座長:副会長より位の低い名誉職。

事務総長:次の会長を狙いうる人が就く出世コース。派閥の資金の管理や渉外など派閥の実務を担当するポスト。

副幹事長:党の役職だが、通例では各派閥からの推挙によって任じられ、派閥と党執行部のパイプ役を果たす。


<概要>

かつては派閥内の結束は強く、夏は「氷代」、冬は「餅代」などと称して所属議員に資金を援助する派閥も存在し、55年体制下においては、新人議員は陣笠議員として各派閥に入り、当選回数・職歴を重ね、そして派閥の意向を酌みつつ政治活動に励んでいた。

また中選挙区制の時代には、自民党は各選挙区に複数の候補者を擁立していたが、同じ選挙区に同じ派閥に所属の候補者が複数立つことはなかった。同一選挙区の自民党候補者は保守層の票を奪い合うこともあり、極めて険悪な関係にあった(かつて政界で一番仲が悪いものは、自民党の同じ選挙区の議員同士といわれた)。55年体制、特に1970年代末から1990年代初頭においては、自民党の派閥は5大派閥に収斂されていた。

これは、当時の中選挙区制では、最大定数が5であったためデュヴェルジェの法則により候補者も収斂されていったためである。

なお、2005年の衆議院総選挙の後に小泉首相(当時)は自民党新人議員が派閥に属することを禁じ、「新人議員研修会」を開いて党が教育すると述べた(が、本来はどの組織にも属さない筈の「無派閥」議員が「新人議員研修会」と言う形で組織的な纏まりを帯び出し、「小泉派か?」とまで評されている)。しかし、その1年後には半数近くの新人議員が派閥入会するにいたっている。


<弊害>

派閥政治は政党政治のあり方の観点から批判されることがある。派閥は政治資金とポストを仲立ちとした議員間の結びつきであるため、資金の不足しがちな若手議員や入閣適齢期の中堅議員は派閥領袖の意向に大きく左右される。そのため党総裁の判断よりも派閥領袖の意向が影響力もつことが多々あり、密室政治や長老支配の原因となってきた。

また派閥から閣僚候補として推薦される為には派閥の資金獲得に大きく貢献する必要があり、さらに派閥の領袖になる為にはその稼ぎ頭ともならなくてはならない。派閥の領袖になる事は総裁(≒内閣総理大臣)候補になることの前提条件でもあるため、金権政治の温床になるとの指摘もある。

派閥政治は時折有効な政治ができなくなる恐れがある。派閥力学によって党や国会の役職や閣僚などが割り振られ、適任とは言えない人が大きな役職につく恐れがある。また自民党政権である事は変わらないのに、総裁の出身が別の派閥に変わっただけで、まるで政権交代が成ったかのように見せる。

また戦後の自民党における派閥抗争は官僚の権力拡大につながったという指摘もある。


<評価>

派閥政治は政党連合と同等であり、与党内に多様性をもたらす。これにより、幾多の政治変動にも対応でき、単一政党では本来成し得ない広大な支持基盤をもった長期政権が誕生した。

価値観の多様化が進む現代社会では、政党制も支持基盤の多様化に合わせて多党化しないと問題が生じ、小党乱立を受け入れざるを得ない。その時でも実効性のある政権を運営するのに、政党連合=派閥政治の経験は大きく役立つだろう。また派閥同士の関係は険悪であったが、日本社会党が与党になれない状況の中で、政治の緊張感を維持し、与党であった自民党の腐敗を防止した側面もある。


<マスコミにおける自民党派閥の呼称>

テレビ・新聞報道等においての自民党派閥の呼称は、総じて各派の会長職にある議員の苗字から、通称で「○○派」と呼ばれる。

この呼称についてはマスコミ各社独自の判断で決定されているため、場合によっては各社において違った呼び方をすることもある(例として、「旧渡辺派」と「村上派」、「旧加藤派」と「小里グループ」など。)「○○派」と「○○グループ」の線引きも曖昧であるが、最近では「○○グループ」の呼称を取りやめて、全派閥とも「○○派」に統一する報道機関が多い。

派閥会長の引退・死去等で、派内に次期会長職を引き継ぐものがいない場合は、前会長の苗字の前に“旧”をつけて、「旧○○派」と呼ばれる。渡辺美智雄の死去後の「旧渡辺派」、河本敏夫の政界引退後の「旧河本派」、橋本龍太郎の派閥離脱後の「旧橋本派」などがこれに当たる。

なお、2003年の総選挙で落選した山崎拓は非議員のまま山崎派会長を務めたが、この時の呼称は総じて「山崎派」のままであった。

また、派閥会長を務めているものが内閣総理大臣などに就任すると、多忙な職務のため派閥会長の座を退任して、派閥の最高幹部に会長職を預けることが多い。この場合は派閥の呼称の変更は行われない。中曽根康弘の総理就任による桜内義雄・中曽根派会長、竹下登の総理就任による金丸信・竹下派会長、小渕恵三の総理就任による綿貫民輔・小渕派会長、森喜朗総裁就任による小泉純一郎・森派会長などがこれに当たる。

これは、総理・総裁就任による一時的な派閥離脱と考えられ、それらの要職を退任すれば再び派閥の会長に復帰する可能性が高いため、あえて呼称の変更はなされないものと考えられる。

例外的なものに田中派がある。田中角栄は、1976年にロッキード事件で自民党を離党し、田中派を脱会。その後、西村英一、二階堂進が派閥会長を務めたが、マスコミにおける呼称は全て「田中派」であった。これは、実際は派閥議員への政治資金や派閥運営の全権を田中角栄が担っていたためで、派閥の所属議員ではないが実質的な派閥のオーナーであることは明らかであったためである。


<自由民主党における派閥興亡史>

自由民主党そのものが保守合同に伴う旧自由党と旧民主党が合併して出来た政党であり、その構成メンバー間の経歴・信条・政策などは決して一致していなかった。そのため、経歴・信条・政策などの近い議員達が党内の有力議員の下に集まって形成されたのが自由民主党の派閥のルーツである。

その後、1956年12月の総裁選挙をきっかけに8つの派閥(通称:「8個師団」、ただし石橋派は他派より規模が小さかったため「7個師団1個旅団」と呼ばれたこともあった)が形成された。


<「8個師団」の興亡>

×印は断絶を表し、※は離脱、分派を表す。


<旧自由党系(保守本流)>

吉田自由党(いわゆる「吉田学校」)
【宏池会】: 池田派→前尾派→大平派→鈴木派→宮澤派(※大勇会・河野系→)→加藤派(※宏池会・堀内派→丹羽・古賀派→古賀派)→小里派→谷垣派→

【木曜研究会―周山会】: 佐藤派→七日会(周山クラブ・保利系→福田派に合流→×)-木曜クラブ・田中派→経世会・竹下派(木曜クラブ二階堂系→×)→平成研究会・小渕派(改革フォーラム21・羽田派→新生党→×)→橋本派→津島派→

【水曜会】: 緒方派→石井派→×
鳩山一郎(1945年~1946年)

【白政会-睦政会】: 大野派→(村上派→水田派→×)と(船田派→×)に分裂


<旧民主党系(保守傍流)>

鳩山一郎(1954年~(1955年)~1959年)
【箕山会・十日会】: 岸派→党風刷新連盟(藤友会・愛正会・藤山派→×、南条・平井系→福田派に合流→×)と(交友クラブ・川島派→椎名派→×)-紀尾井会-八日会-清和会・福田派→安倍派→三塚派(政眞会・加藤系→新生党に合流→×)→森派(亀井系→旧渡辺派と合併→×)→町村派→

【春秋会】: 河野派→新政同志会(春秋会・森派→園田派→福田派に合流→×)-政科研・中曽根派→渡辺派→志帥会・村上派(※近未来研・山崎派→)→江藤派→亀井派→伊吹派→

【火曜会】: 石橋派→石田系→三木派に合流→×

改進党
【政策研究会・政策同志会・政策懇談会】: (×松村系)-番町政策研究所(早川系→×)・三木派→新政策研究会・河本派→番町政策研究所・高村派→

<その他>

旧青嵐会・中間派系
自由革新同友会・中川系→石原系→福田派に合流→×
旧保守新党
新しい波・二階系→
他に、結党間もない頃には芦田系、大麻系、北村系等の少数グループがいくつか存在した。

1970年代には田中派と福田派による角福戦争が繰り広げられ、田中派が勢力を持つこととなった。その政治手法が”金権政治”的であった為、これを打破しようという目的で若手議員が中心となって青嵐会が結成された。

上記の他、河野洋平の「政治工学研究会」、小坂徳三郎の「新風政治研究会」など一部の派閥横断型政策集団は、そのまま派閥として発展する可能性を持っていた。古くは砂田重政、賀屋興宣、一万田尚登などが派閥形成を試みている。


<自民党の派閥一覧>
(2006年10月27日現在)

町村派(清和政策研究会)・・・87人(衆59人、参28人)
津島派(平成研究会)・・・78人(衆43人、参35人)
古賀派(宏池会)・・・50人(衆35人、参15人)
山崎派(近未来政治研究会)・・・36人(衆31人、参5人)
伊吹派(志帥会)・・・34人(衆20人、参14人)
高村派(番町政策研究所)・・・16人(衆14人、参2人)
谷垣派(宏池会)・・・16人(衆12人、参4人)
二階派(新しい波)・・・15人(衆13人、参2人)
河野派(大勇会)・・・11人(衆10人、参1人)
党籍離脱中の河野洋平・衆院議長は除く。

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2006-12-10 Sun 08:47
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